高校生の現代文テスト対策 森鷗外『舞姫』⑤<完結篇>総まとめ

 天方大臣との最初の面会では、豊太郎の身柄に大きな変化が生じるようなことはありませんでした。この時は、大臣からはドイツ語の文書の翻訳を頼まれただけです。そしてそのあとの相沢との昼食で、前回取り上げた相沢の「友情」からの「忠告」が、なされました。

 さて、これに対する豊太郎の心中は、どうでしょうか。原文を引きます。

 大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方針なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ行き着かんも、否、はたして行き着きぬとも、わが中心に満足を与へんも定かならず。貧しきが中にも楽しきは今の生活、捨て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めん由なかりしが、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守るところを失はじと思ひて、己に敵する者には抗抵すれども、友に対して否とはえ答へぬが常なり。

 (大海原でかじを失った船乗りが、はるかかなたの山を目標として眺めるようであるのが、相沢が私に示した先行きの望みである。しかしこの山はまだまだ濃い霧の中に見えているもので、いつたどり着くことができるのかも、いや、かりにたどり着いたとしても、私の心に満足を与えてくれるものなのかもわからない。貧しい中にも楽しいのは今のエリスとの暮らしであり、捨てられないのは、エリスの愛である。私の弱い心では決断などできるはずもないのだが、とりあえずその場は友の言葉に従って、エリスとの関係を断つ、と約束した。私は自分の守るべきものを守るために、自分の敵となる者には抵抗するが、友に対してはノーとは言えないのが常である。)

 ここで豊太郎は、「友にはノーと言えない」気質から(言い訳にすぎないという指摘は、あってもいいと思います)、エリスとの関係を断つ、と、相沢に約束してしまいます。

 それからひと月ほど経って、豊太郎は大臣の通訳として、ともにロシアへ行くよう求められます。この時も、「いかで命に従はざらん」(どうしてご命令に従わないことがございましょうか、謹んでお受け致します)と、即答するのですが、これもまた、「豊太郎の気質」なのです。「この答へはいち早く決断して言ひしにあらず。余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり。」(この返事は、即座に決断して言ったものではない。私は、自分が信頼する相手から突然何かを聞かれたときは、咄嗟の間に自分の返答がもたらす結果の範囲を考えることもできず、すぐに請け合ってしまうことがある。)そして、請け負ってしまってから、それが実行しがたいことであると気づいても、無理をして実行することがしばしばあるのだ、と言います。ここでも例の「気質」のために、たとえば少し考えさせて下さい、などということもできず、すぐに従ってしまったのです。あとからどのような事態が持ち上がるか、考えもせずに。

 さて、豊太郎は大臣とともに、ロシアへ行きました。エリスは、大臣のお供でロシアへ行くことについては、ひどく心配するようなことはありませんでした。豊太郎の心を、信じていたからです。

 しかし、ロシアにいる豊太郎のもとへ寄せる手紙で、エリスの思いはつのり、どんどん強く豊太郎に訴えるものとなって行きます。現代語で要約します。

・豊太郎がロシアへ行った翌朝、目を覚ますと、一人残された心細さが身にしみた。こんな思いは、その日の食べ物にこと欠くときにもしたことがない。
・あなたを思う気持ちがこんなにも深かったのだと、今知った。あなたは故国に身寄りがないとおっしゃったから、この地(ドイツ)で生計を立てることができるならば、この地にお残りにならないことがあろうか(残って下さるに違いない)。また、私の愛でつなぎとめてみせる。
・(ロシア行きは)ほんのいっときの別れと思っていたけれど、一日一日と日を追うごとに、別離の悲しみが強くなっていく。おなかの子どもがだんだん大きくなっていく、そのこともあるし、たとえどんなことがあっても、私をお捨てにならないで下さい。
・(母とはずいぶん争ったが、自分の気持ちが以前と違ってかたく揺るがぬのを見て、母はあきらめた。)母はステッチンあたりの農家に遠縁の者がいるから、私が東(日本)へ行くときには、そこへ身を寄せると言っている。
・私一人の旅費だったら、あなたが大臣に用いられるときには何とでもなるでしょう。とにかく、今はただあなたの帰りを待っています。

 こうしたエリスからの手紙を読んで、はじめて豊太郎は、自分の置かれた立場に気づきます。それはかんたんに言うと、次のような「立場」です。

 天方大臣に認められ、ふたたび公職に就いて(または大臣に雇われて)日本へ帰り、日の当たる道に戻るチャンスが、そこまで来ている。ただしそれには、エリスと別れることが絶対条件である。
 いっぽうエリスは、ロシア行きで二十日あまりはなれている間に思いを募らせ、決して捨てることのないように、と迫ってくる。また、豊太郎について日本へ行くことを、夢見たりもしている。エリスを取るならば、日本へ帰って出世する道は、永久にあきらめなければならない。

 さて、いよいよ佳境にさしかかりますが、その前にやはり、豊太郎がロシアから戻ったときのエリスの様子を、確認しておきましょう。

 車はクロステル街に曲がりて、家の入り口に止まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁にカバン持たせて梯(はしご)を登らんとするほどに、エリスの梯を駆け下るに会ひぬ。かれがひと声叫びて我が項(うなじ)を抱きしを見て馭丁はあきれた面持ちにて、何やらん髭のうちにて言ひしが聞こえず。
 「よくぞ帰り来たまひし。帰り来たまはずは我が命は絶えなんを。」
 我が心はこのときまでも定まらず、故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕(ていくわいちちう=あちらにしようか、こちらをとるかと、あれこれ思い悩むこと)の思いは去りて、余はかれを抱き、かれの頭は我が肩によりて、かれが喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。

 (車はクロステル街に曲がって、家の前に止まった。この時、窓を開ける音が聞こえたが、車からは見えない。馭者に鞄を持たせて階段を上ろうとしたそのときに、エリスが階段を駆け下りて来たのに出会った。彼女が一声なにかさけんで私の首すじに抱きついたのを見て、馭者はあきれた表情で、何やら髭の中でぼそぼそ言ったようだが、聞き取れない。
 「よくぞお帰り下さいました。もしお帰りにならなかったら、私は死んでしまっていたでしょうに。」
 私の気持ちはこの時もまだ固まっておらず、日本を思う気持ちと、出世を望む心は、時にエリスへの愛の方を押しつぶそうとしたが、ただこの刹那において、どちらをとろうかとあれこれこ思い悩んでいた迷いは消えて、私はエリスを抱きしめ、彼女は頭を私の肩にもたせかけて、エリスの喜びの涙がはらはらと、私の肩の上に散った。)

エリスのいちずな思いが、よくわかります。

 しかし、これからわずか二、三日あと、豊太郎は天方大臣に呼ばれます。そして自分と一緒に日本に帰る気はないか、と聞かれるのです。ここで豊太郎は、これまでずっと見てきた彼の「気質」のまま、エリスがいることも、彼女を愛していることも言い出せず、結局はエリスを裏切ることとなる(そして廃人にしてしまう)「日本行き」を、承諾してしまったのです。

 ここでみなさんに、ちょっと質問します。あなたが豊太郎の立場だったら、どうしますか。あるいはエリスの立場だったら、どうして欲しいですか。

 エリスとの「愛」を貫くなら、大臣にすべてを自白し、相沢にはあとで謝罪する、という手段が、まずひとつ考えられます。

 また豊太郎が本当に利己的な、自分のことしか考えない人間だったら、この場ももっとうまく立ち回るでしょうし、なおのこと、帰宅する間に茫然自失となり、人事不省となって、あのような結末を迎えるのでなく、たくみにエリスを言いくるめるなどして、あっさりエリスを捨ててしまうでしょう。

 そのどちらもできなかったため、豊太郎は大臣に日本行きの承諾の返事をした夜、自分のことを許しがたい罪人だと責めながら、こごえる街を歩き通し、半死半生の状態でエリスの待つ家に帰りました。

 エリスは、豊太郎が大臣に会って何を話したか知らぬまま、身重の身で懸命に看病し、そこへ相沢が来て、豊太郎の日本行きのことなどを、話してしまったのです。

 「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」

 このエリスの言葉だけは、「現代語訳」をせず、そのままにしておきたいと思います。実はこのサイトをお読み下さるみなさんのために、ずっと「現代語訳」をして来ましたが、もともとこの文章(鷗外の原文)は、文語のまま味わうのが良いとされているのです。今回本稿で「訳」をした箇所にも、文語ならではの整った表現を口語化するため、かなり無理を感じた部分がありました。

 ですから、本稿においても、エリスのこの言葉はそのまま味わっていただきたいと思います。

 このひと言を最後に、エリスは正気を失ってしまいました。豊太郎が人事不省の状態から目覚めたとき、すでに正常な彼女はいなかったのです。彼があとから聞いた話では、エリスは「我が豊太郎ぬし・・・」の言葉を叫んで倒れ、目覚めたあとは、母親の与えるものをみな投げ捨てる中で、やがて生まれる赤ん坊のために用意していたおむつだけを、顔に押し当てて、涙を流したということでした。またそのあとも、そのおむつ一つだけが、崩壊したエリスの精神を、唯一つなぎとめているもののようでした。

 このおむつは、豊太郎がロシアから帰って来たとき、机の上に白い木綿、白いレースをうず高く積み上げていて、楽しそうに豊太郎に見せ、夢(太田の姓を受け、子どもに洗礼をうけさせる)を語った、エリスのたった一つのよりどころです。こうしたエリスの姿を、そして豊太郎の気質を、また相沢の行ないを、総合して考えてみて下さい。

 豊太郎は回復して、エリスの「生ける屍」を抱き、「千行(ちすじ)の涙」を流しました。けれどもエリスが回復することはなく、もとより豊太郎は日本に帰国します。その帰国の途上で、ドイツでの日々を回想するところから、『舞姫』ははじまっているわけです。最初の方で、どういう内容なのかよくわからないまま読みすすんだ方は、ここから、もう一度『舞姫』の全文を読んでみて下さい。そして考えて下さい。

 本稿では、読み解くお手伝いをするまでのこととして、私の考えや、いくつかの批評のパターンを提示することは致しません。ただ、人の心とは、理屈で判断するようには動かないということ、生まれ持った気質を大事な場面で変更することがきわめて難しいということを前提とし、その結果エリスの身の上に起こった悲劇をどうとらえるか、という筋道に立って、先に提示したポイントなどを考えてみるよう、おすすめします。

 ご質問・ご意見、また『舞姫』に関しては、本稿で取り上げていない箇所の部分訳についても、お答え致します。お気軽にご連絡下さい。 hyojo@kotogaku.co.jp

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